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独立ゲリラの勝利で、植民地に戻って消えた国

ローデシア

ローデシア→ローデシア共和国→ジンバブエ・ローデシア
首都:ソールスベリ 人口:680万人(1979年)

1965年11月11日 ローデシア(英領南ローデシ ア)が一方的にイギリスから独立を宣言
1970年3月2日 ローデシア共和国と改称
1979年6月1日 ジンバブエ・ローデシアと改称
1979年12月12日 イギリス植民地に復帰
1980年4月17日 イギリスからジンバブエとして独立

ローデシアといえば、一時は南アとコンビを組んでアパルトヘイト(人種隔離 政策)で世界に悪名を轟かせたアフリカの白人国家。「ローデシアって、革命が起きて黒人国家のジンバブエに変わっただけでしょ?消滅したわ けじゃないじゃん」と思う人がいるかと思います。私も実はそう思ってました。ところが、ジンバブエはあくまでイギリスから独立したのであって、ローデシア が革命で改称したわけではありません。じゃあ、ローデシアはどうなったかというと、イギリス植民地に戻って 消滅したわけで、さらに公式には、「もともとそんな国は存在しなかった」ということになっています。

ジンバブエとは、13~14世紀頃この地で栄えた黒人王国が残した巨大遺跡群の名称から取った国名。一方でローデシアとは、この地に白 人植民地を築いたセシル・ローズから取った国名。どちらも国のあり方をよく象徴したネーミングですね。

大航海時代のポルトガル以来、アフリカに植民地を築いたヨーロッパ列強諸国は、当初は沿岸部に要塞を築いて拠点とし、貿易を独占した り、奴隷狩りを行って新大陸(南北アメリカ)の農場へ送り込むなどして利益を上げていたので、内陸部への進出にはあまり関心がなかった。しかし産業革命が 起きると、アフリカの植民地は本国へ資源(鉱物資源や商品作物など)を供給する場となり、列強はより多くの鉱山を独占し、農場を開拓するために競って内陸 へ進出した。

アフリカ南部では、東岸と西岸の拠点を横断して結ぼうとするドイツ(タ ンザニアとナ ミビア)やポルトガル(モ ザンビークとアン ゴラ)に対し、イギリスは南北の拠点(カイロとケープタウン)を縦断して確保しようと目論んで対立。そのイギリスの尖兵となって活躍したのがセシ ル・ローズだった。

ローズは1870年に17歳で南アフリカへ渡り、金鉱を開発して富を築き、90年にはケープ植民地の首相となったが、一足先に入植して いたオランダ系白人(アフリカーナ)が南ア北部で建国したトランスバール共和国やオレンジ自由国を併合しようと圧力をかける一方、さらに北へ進出するため に国策会社のイ ギリス南アフリカ会社を設立して、1890年から現在のジンバブエからザンビアにかけての地域に白人開拓移民を送り込み、鉱山や農場を広げるとと もに、南アと結ぶ鉄道を建設した。これらの地域では、かつての東インド会社のように、南アフリカ会社が防衛や行政運営に当たっていたが、先住民の襲撃に備 えた軍事費負担の増大で会社の利益は上がらず、入植した白人たちからは自治を求める声が強まったので、1923年に白人入植者が多かった南ローデシア(ジ ンバブエ)はイギリスの自治領となり、北ローデシア(ザンビア)は翌年イギリスの保護領になった。

戦 後は北ローデシアやニアサランド(現在のマ ラウイ)とともに、白人が政権を握る中 央アフリカ連邦を結成して英連邦内の準独立国となったが、50年代末から60年代初めにかけてアフリカ諸国が次々と独立を達成する中で、白人人口 が少なかった北ローデシアやニアサランドが63年に相次いで分離して連邦は崩壊。イギリスは南ローデシアにも政権に黒人を参加させて独立するように求めた が、イアン・スミス首相率いる南ローデシアの自治政府はあくまで拒否して、65年にイギリスの承諾なしに新 国家「ローデシア」の一方的な独立を宣言。イギリス本国から派遣されていた総督を追放した。

ローデシアでは1950年代末まで主に南アからの白人入植者が増え続けていて、独立当時の人口は黒人361万人に対して白人22万人。 南アに倣ったアパルトヘイト(人種隔離政策)を実行して、農業に適した国土の38%は白人だけに土地所有権を認め、黒人は不毛な土地が大部分の46%の居 留地に押し込まれた(※)。

※当時の政府の言い分としては、白人と黒人が一緒に住んでいると、白人の農地が黒 人の家畜に食い荒らされたり、白人の家畜が黒人の家畜から病気を移されるので、居留地を分ける必要がある・・・そうな。ちなみにローデシアのアパルトヘイ トは南アに比べれば緩く、白人と黒人のセックス禁止法(背徳法)や黒人の常時パス(身分証)携帯義務は独立までに撤廃。大学の入学も白黒平等だった。また 黒人の参政権をまったく認めなかった南アと違って、ローデシアではいちおう認めた。ただし有権者になるためには学歴や所得、土地資産について厳しい条件が あり、上級有権者(主に白人の資産家=50議席を選出)は9万3000人、下級有権者(主に黒人の中産階級=15議席を選出)は1万1000人で、大部分 の黒人は「学歴と資産がない」という理由で、政治的権利は与えられなかった。

植民地の一方的な独 立宣言は「1776年のアメリカ以来」とか。じゃあ、悪いことじゃなさそうな気が・・・
1960年11月12日付『朝日新聞』
ローデシアの 一方的な独立に、イギリスは「総督の追放は最高刑罰が死刑の反逆罪に当たる」と激怒。国連総会でもローデシアの独立不承認と外交関係断絶が決議され、日本 をはじめ各国はソールスベリの総領事館を閉鎖した。しかしイギリスはローデシアの「反逆」を武力で制圧しようとはせず、国連も石油の禁輸を中心とした経済 制裁にとどめた。

イギリスとしては、ローデシアは内陸国だし、外貨獲得源の農作物や鉱山資源が輸出できず石油も輸入できなかったら、1~2年でネを上げるだろうとタカをくくっていたようだが、予測はまったく外れた。ローデシアの海への 出口は、鉄道で結ばれた南アとモザンビークだが、南アは白人国家の兄貴分、モザンビークも当時は世界の趨勢に逆らって植民地独立を一切認めないポルトガル の植民地だったから、両方ともローデシアとは同じ穴の狢のような存在。かくしてローデシア産の資源や農作物は南アやモザンビークの港から産地を曖昧にして 輸出され続け、ローデシア最大の輸出商品であるタバコの葉は、アメリカの大手タバコ会社が購入し続けた。イギリス資本が撤退したことでローデシアでは地元 の白人企業が基幹産業を担うようになり、むしろ経済は発展していった。結局、ローデシアの経済封鎖で大打撃を受けたのは、ローデシア経由で輸出入を行って いた、もっと内陸国のザンビアだった(※)。

※そのザンビアに新たな海への出口を与えるために、中国の援助で75年にタンザニ アまで1700km建設された鉄道が、かの有名なタンザン鉄道。

しかし、75年にポルトガルで政変が起き、植民地をすべて放棄するとローデシアを取り巻く形勢は変わる。独立したモザンビークは社会主義国となり、60年 代から黒人主体によるローデシアの独立を求めていた、ジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)やジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)は、モザンビーク国内に拠点を作って武装闘争を一気に本格化 させた。ソールスベリーはじめ都市部でも黒人の暴動が繰り返され、それらを鎮圧するために、ローデシアの白人男子は通常の兵役のほかに、年に3ヶ月~6ヶ 月の特別召集をかけられる有様。これでは経済も停滞し、白人もヘトヘトになって、79年には国名をジンバブエ・ローデシアと改称して、憲法を改正。黒人に も1人1票の参政権を認め、スミス白人首相に代わって、ムゾレワ黒人首相による政府が誕生し た。

と ころがこの新憲法では、政府官庁や軍、警察の人事権は白人が多数を占める公務員委員会に握られ、裁判所の判事の任免も白人判事に握られ、上院議員の選出は 白人の州知事に握られるといったシロモノ。黒人首相の政府は実権が限られ、白人が大部分を占有している農地も、その所有権が憲法で保障されるという状態。 これじゃ「黒人首相の政府はカイライに過ぎない」というわけで、国連もイギリスも新政権を承 認せず、反政府ゲリラも武力攻撃の手を緩めない。こうして、ローデシアの白人たちもついに実権維持を断念し、イギリスの調停で停戦が実現。「カイライ政 権」と反政府ゲリラの双方で会談が開かれ、79年末にランカスターハウス制憲協定を結び、再び新憲法が作られることになった。

新憲法では、今度こそ黒人(選挙による多数派)主体の政権に実権が与えられたが、協定に基づき7年間は現時点での土地所有権や国会での白人優先枠(100議席中20議席)が認められ、白人側も一定の既得権が認められることになっ た。そしてイギリスに「反逆」して独立したローデシア政府と、その後継のジンバブエ・ローデシア政府は「なかったこと」になり、ローデシアはいったんイギリス植民地に戻って、一から独立をやり直すことになった。こうしてイギリスから改めて総督 が派遣されて主権を回復し、行政機関や政府軍、反政府ゲリラ部隊は総督の指揮下に入り、80年2月の総選挙を経て、4月にジンバブエは公式にイギリスから 独立した(※)。

※「いったん植民地に戻って、一から独立をやり直す」ケースには、他にインドネシ アが76年に武力併合した東ティモールがある。99年の住民投票で独立が決まり、インドネシアによる統治は「なかったこと」とされ(だからインドネシア時 代の土地所有権などは無効になった)、2002年に東ティモール共和国が独立した。もっとも99年から独立までは国連が暫定統治をして、「宗主国」のポル トガルが実際に統治したわけではなかった。また東ティモール政府の中には「いやいや、東 ティモールは75年にちゃんんと独立しているんだ」と主張している人たちもいて、この問題は「タブー」になっている。

80年の総選挙では、ムガベ氏率いる社会主義路線を掲げたZANUが57議席と圧勝し、ヌコモ氏率いる民族派のZAPUは20議席、ムゾレワ前「首相」の CAPUは3議席と惨敗した。首相に就任したムガベ氏はそれまでの過激なイメージを払拭して、黒人と白人の共存した国づくりを訴え、白人の土地を黒人に分 け与える農地改革の実施も協定通り凍結すると約束。野党のZAPUと連立政権を組み、農業大臣や商工大臣には白人を起用し、軍の司令官にも白人を留任させ て、国民和解を強調した。

アフリカでは独立とともに白人を追放し、農地や企業を国有化して経済を壊滅させてしまうケースが相次いでいた。独立後たちまち飢餓地獄 に陥ってしまった隣国モザンビークなど、典型的な例だ。それを教訓にしたヌコモ氏の現実路線は成功し、世界から賞賛を浴びた。白人政権を率いたスミス元首 相も逮捕や追放はされず、引き続き白人政権時代の与党「ローデシア戦線」の議員として国会に留まり、ジンバブエへの投資を呼びかける政府代表団としてヨー ロッパを訪問している。

ところが出だしは良かったムガベ氏も徐々に独裁色を強めてゆき、87年に政権協定が切れると白人優先議席を廃止。大統領に就任するとと もに野党のZAPUも非合法化して一党独裁体制を築いた。白人の土地所有は7年どころか20年間そのまま認めていたが、土地を手にするために命がけで戦っ た元ゲリラ兵士たちが白人農地を実力占拠し始めると、これを追認して2002年には白人農地を没収。1970年には27万5000人いた白人は7万人程度 に減り、旱魃やエイズ蔓延(成人男子の3人に1人がエイズに感染してるとか)も重なって、今やジンバブエ経済は壊滅的な状況になりつつある。

スミス元首相は白人議席の廃止に伴って1987年に政界を引退した後、故郷での農場経営に戻っていたが、老後は07年死去するまで南ア フリカに住む義娘のもとで暮らしていた。ムガベ批判や新たに結成された野党MDCの応援をして、ムガベ大統領からは「帰国したら逮捕して過去の黒人虐殺の 責任を問う」と名指しで警告されていたが、結局逮捕されることはなくジンバブエの実家にもたびたび里帰りしていたようだ。

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